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宮崎学Facebook

本音のコラム(4回目)3月27日付

 アメリカと日本の関係は、用心棒と馬鹿旦那の関係のように見受けられる。昔、愚連隊の神様と呼ばれた万年東一さん(1985年没)に用心棒稼業についてお話をうかがったことがある。万年さんは故佐藤栄作といった保守系政治家のそればかりでなくヤクザの用心棒もやっていたというその道の大権威であった。

 用心棒にとって一番おいしい客は、ありもしない危険を恐れ、保護を求めて金を持ってスリ寄ってくる旦那であるという。用心棒の側としては、時々危機を演出してみせるというのが正しい用心棒の在り方だとも語ってくれた。

 アメリカと日本の状況にこれを当てはめてみると、なるほどと思われることがある。戦後58年、日本はアメリカに対して、高い用心棒代を払ってきた。今回のアメリカのイラク侵攻支持も、ここで支持しないと用心棒が機嫌を損ねて北朝鮮に叩かれる時に日本を助けてくれないという恐怖心がその根本にある。それが馬鹿旦那である小泉の支持表明である。

 しかし、日米安保条約上、日本が他国からの侵略を受けた場合、アメリカが日本を防衛するのがその義務であるとされている。アメリカの機嫌という項目はどこを見ても見つからない。まして今、北朝鮮を巡る危機の大半がアメリカによる演出とした場合、なにをか言わんやということになりはしないだろうか。

 ところで、この万年さんの口癖は「馬鹿は死ななきゃ治りゃしねぇよ」というものであった。

本音のコラム(3回目)3月20日付

 アルコール依存症(俗に言うアル中)のことをALCOHOLISMという。イズム、つまり主義とは「中毒」ということである。宣戦布告を行うブッシュの演説を見て、ふとアメリカは何時頃から戦争主義、戦争中毒に回帰したのかということを考えてみた。

  1975年、ヴェトナム戦争が終わった後の約10年の間で、戦争に対するアメリカ人の意識は大きく変化した。この時期にはヴェトナム戦争をテーマとしたハリウッド映画が次から次へと制作された。プラトーン、地獄の黙示録、フォレスト・ガンプ等々である。

 そしてこの時期に作られた映画は、それまでのものとは同じ戦争映画とはいえ趣を異にしていた。戦争の否定という情感をベースにしているところが実に新鮮に映ったものであった。明らかに戦争依存症を克服しようとする文化が息づいていた。新しいアメリカの可能性を示すものであった。しかし、ここに来てのアメリカは、そのヴェトナム戦争への反省などというものではない。 3月11日にラムズフェルドが示した新型爆弾MOABのお披露目などに至ってはアメリカの病理が広島・長崎以前の水準にまで進行していることを示している。

 こうした結果、ブッシュが最後にメッセージしたのは「神のご加護を」という言葉であった。

 神の名において人を殺め、人を支配する。戦争中毒ブッシュにとって神とは実に都合の良いものらしい。

本音のコラム(2回目)3月13日付

 テレビで犯罪を評論する「知識人」の慣用語なのであろう、「人間性のかけらもない行為だ」といった表現を耳にすることがある。しかし、動物は犯罪を犯さない。犯罪が人間特有の行為であるとするならこの表現は言語矛盾ということになる。こうしたことから動物と人間の差はどこにあるのかを考えてみた。人間は思想や宗教を持つことが出来る。それが動物との差ではないだろうかと。

 その際問題とすべきは、自らと異質の存在についての態度である。ここで私は異質の他を認めよというありきたりな民主主義を説くつもりは毛頭ない。もともと絶対の正義、無謬の人間、そして国家さらに思想など存在した試しは人類史上見出し得ない。そこで自らが誤謬に陥る可能性を排除しないという思想の地平が、唯一人間が持ち得る動物との差異と私は確信したい。

 おおよそ取るに足りる思想とはそういうところから初めて醸成されてくるものと考えるからである。こうしたことから、正義は我にあり、我以外は悪徳であり殲滅すべしと熱狂に酔う人達を嫌悪せざるを得ないのである。皮肉で残念なことだが、正義の旗を振りかざすことによって人間は動物以下の生き物になり下がり、その結果「人間性のかけらもない行為」を何度も繰り返してきたというのが人の歴史の姿ではないだろうか。

 ブッシュのイラク侵攻を直前にした今、人間とはかくも愚かな存在であったことを再認織した。

本音のコラム(1回目)2003年3月6日付

 戦争の世紀であった20世紀の「戦争の時」は、戦争を遂行する国々の国論がものの見事に統一されていた。国論とは、辞書によると「世論」と同義語とされるが、国の進路に関わるという意味が「世論」より少し多く含まれる言葉として私は理解している。

 この国論と戦争の関係を考えてみた。戦争を遂行できる国は国論が統一されている。つまり、強い国には色とりどりの世論は要らないし、一つの色で塗りつぶされる国論が必要となると言うことだ。これが国論と戦争の関係である。

 20世紀、社会主義諸国は戦争を前提として成立していた。故に国論は統一されていた。私は今の北朝鮮にその残滓を見る。

 ところで最近、この北朝鮮と力でもって対抗すべしとする論調が浮上してきた。その論者は同時に国論の統一を声高に主張している。北朝鮮と対抗するために、そこにある以上の国論の統一を日本でも行うべきとする意見である。これは明らかに論理の矛盾である。問題はそれだけではない。この種の、小学校のホームルームの決めごとのような主張が我が物顔で横行する現代社会の空気は、すでに北朝鮮よりも重いものと私は感ぜざるを得ない。

 私は、戦争とは精神と知性の全くの退廃だと考える。戦争への定石としての国論の統一という言説を私は拒否する。国論がいくつにも分裂し、議論が百出している国は実に住むに心地よい。しかし、最近この国は住みづらくなってきた。

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