2003年04月

本音のコラム(8回目)4月24日付

 国会議員の道義を問うのがこの国の「市民」は好きなようだ。議員が秘書の給料を誤魔化したのが許せないとか、秘書の給料を引退したヤクザに出させていたのはとんでもない不道徳の行為だと言って憤慨してみせることを生業とするコメンテーター族には、特に辟易とする。

 議員とヤクザが関係を持つことは民主主義の根幹に関わる許すべからざる行為、という御説をのたまうこの種の人達に問いたい。

 例えば、選挙の際にヤクザがある候補者に投票し、その候補者が当選したとする。議員とヤクザは選挙、投票という民主主義の極めて重要な行為を通じて関係を持ったということになるのかと。

 その際「道義」を唱えるこの人達は、当選した議員は辞任すべきというのが、論理の一貫性ということになるのではないかと。

 だとしたら、いっそのことヤクザや元ヤクザから投票権を剥奪すべきと言うべきではないのか。

 道義性を問うというのは、こうしたことをいうのである。つまり.道義を問うということを安易に、まして生業のために唱えるべきものではない。そこに違法行為がある場合、そしてそれを議員などが隠蔽していた場合などは、それを徹底して追及するというのは全く正当な行為である。

 しかし、道義性を問うた瞬間、その行為は私刑の論理に転化するのである。

 そもそも権力亡者の政治家に道義を求めるのは、イスラム教徒にお百度を踏めと言うようなものである。

本音のコラム(7回目)4月17日

 現代社会は、世論というマグマの上にきわめて不安定に建つ建造物という観がある。マグマは時には噴出Lたり、地鳴りを響かせたり、沈黙したりする。

 このマグマは、元来人間の情感に由来するものだけに、人工的に加工されやすいという性向を持っている。

 このことから、マグマの動きを演出する技術の巧拙が社会の支配層たり得るかどうかの分岐点となる。

 こうして君臨を求める者は、マグマを自らの意図の下に制御する技術を練り上げることとなる。

 ところが支配する者に対抗する側も、世論というマグマに依ろうとする。そのため、現代社会における対立と闘争とは、この世論の奪い合いということになる。

 そのため、支配し君臨する側も対抗する側も、マグマが反応しやすい、心地よい響きの言葉、勧善懲悪に図式化された平面的な言葉を多用する。

 今回の統一地方選挙で繰り返し使われた言葉からもこの種の傾向がうかがえる。それは「市民」、「無党派」、「改革」というものであった。何故かこれらの言葉は肉感性のカケラもないデオドラントなものである。

 しかしこれらの言葉は、マグマにとっては心地よく響いたようだ。その結果、東京都民にいたっては、70歳を超える老人を、閉塞する政治状況を打ち破る「戦士」として選択することとなった。

 自らの内からほとばしる言葉は不要となり、平準化された言葉が大量に消費される時代となった。

本音のコラム(6回目)4月10日付

 歴史の潮目にさしかかったという実感がある。

 こうした先行きの不透明な時に人は、それぞれに不安をつのらせる。そして神に祈って自らの「何か」を守ろうとする。「何か」とは自らの命だったり、家族だったり、国家であったり、時には「見栄」だったりする。

 ところで今から90数年前の1911年に、大逆事件で死刑判決を受けた幸徳秋水が、その後に詠んだ漢詩の一説に「途(みち)窮まれど未だ神に祷らず」という句がある。

 この4日後、幸徳に対する死刑は執行される。どんな窮地に陥っても神に祈って助けてくださいとは言うまいというこの句は、幸徳のその精神の気高さを示すものといえよう。

 近代以降人類は、二度の世界大戦を体験してきた。アメリカにいたっては200回もの戦争を行うのである。戦争はその都度、侵す側、侵される側を問わず、神に祈り、神を最後の拠り所としてきた。

 つまり理性によらず思考を停止し、運命を神にゆだねたときに戦争があるのだ。

 人は、安寧を期して神に祈るのであるが、それが結果として争乱と破壊を生み出してしまう。人の営みとはなんと皮肉なことであろうか。

 歴史の潮目を迎えた今、人はまたもや神に祈ることに依ろうとしている。

 しかし、神に依らず、知の営みをもってこの悲惨で苦悩に満ちた現実と対時する方途もあるはずではなかろうか。

 幸徳の句に示された精神が今ほど輝きを持つときはないと思われる。

本音のコラム(5回目)4月3日付

 米国のイラク侵攻がドロ沼の様相を呈している。戦争をバーチャルに捉える米国の、ネオコン派の戦争観の破綻がそこに見える。

 ところで、一つの可能性をこの戦争について考えてみたい。日本がこの米英の暴虐に反対する姿勢を鮮明にしたとしたら、この戦争は止めることが出来たのではないかという可能性である。

 欧州において仏・独が反対し、アジアにおいて日本が反対したとしたら、この戦争は止まっていたと考えるのが合理的である。しかし日本政府は戦争を支持した。

 問題はここにある。残念ながら戦争を支持する政治家を首相に選択した国民の誤りがその根底にある。2001年、当時の自民党森派の会長であった小泉を日の丸の小旗を打ち振り歓呼の声で迎えたわが国民は、この政治家の持つ好戦性と、恐慌的不況の継続と推進という本性を見抜けなかった。明らかに国民の側が誤ったのだ。

 ところで国民の意思は、時によっては誤ることもある。最近の反戦デモに対して小泉が言ったことはそれはそれで正しい。しかし、その際問われるのは、なぜ国民が誤った選択をしたかの総括が出来るかどうかである。それが民度が高いか低いかのメルクマールとなる。

 小泉の弁を借りれば、彼を選択した世論なり国民がそもそも誤っていたのである。

 その国の指導者は、その国民の民度を示す鏡である。だとしたらわが民度は、あまりにもお粗末過ぎはしないだろうか。

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