2003年05月

本音のコラム(13回目)5月29日付

 5月23日、「個人情報保護法」が参議院を賛成多数で通過し成立した。

 この法のイカガワシさは、これまで何度も指摘してきたので、ここではあえて触れない。

 問題はこうした法案がかくも簡単に成立してゆく構造である。もともと絶対多数の連立与党がそこにある以上、国会の場における攻防の帰趨はハナから明らかである。

 国会での法案成立の可否は、もっぱら与党の意志によるところであって、野党やまして反対運動の意志など実に非力なものなのである。

 さらに醜悪な事態はこうした国会の状況を受けて反対する側、つまり野党側が次の選挙で多数派になれば解決できるとする論理にある。

 何故なら、野党が次の選挙で与党に仮になったとしよう。その時与党となった政党が、今回提出されたイカガワシい数々の法案と同質のものを持ち出さないという保証はない。

 こうした絶望は、この国の政治が官僚によって行われていて、政治家はピエロとして国会という舞台で監督たる官僚の書く台本の役割を演じ、そのギャラとして何がしかの利権を与えられるという構造が原因である。

 残念ながらこの構造こそが明治維新以降連綿と継承されている我が国の姿ではないだろうか。

 個人情報保護法が成立した今、官僚は「汗をかいた」与党政治家にどのようなギャラを払うのか、このチェックが反対の意思を表明した者の責務と思う。

本音のコラム(12回目)5月22日付

 金を借りる、金を貸すと言う行為はきわめて単純な契約に基づく経済行為であって、「道義」が問われる類のものではない。

 そして、この契約は、借りた金が返せなくなったときのことまで約定しているものである。

 もう一方で、「借りた金は返すのが人の道」という理屈があり、最近ではこれが横行している。「人の道」というのなら、最低限金利は取らないということになるのだが、高金利を取る者ほど「人の道」にうるさいようだ。「道義」は契約することなどできないものなのである。

 もともと銀行という存在はその本質は金貸しなのであるが、最近は国家からタダのような金利で無尽蔵に金を引き出す金借りに「成長」している観がある。そしてこの金借りは、利息の鞘を抜いて、本当の金借りに金を貸すのであるが、その低俗な経済行為さえ、貸しはがしに見られるように機能しなくなっている。

 この国において、金を貸す、借りるという経済の基本構造が、為政者の過剰な介入により完全に破綻しているというのが現状である。

 こうした時、住宅ローンを含み、借金を「マジメ」に返すのは、全くの愚行である。ためらいもなく全ての借金を堂々とそして明るく踏み倒す時が来たように思われる。どのような種類の借金であっても、踏み倒すことによって失うものは、なんの意味もない「見栄」だけである。

 ちなみに私などは、数十年前からこれを実行し、何ら不利益を受けていない。

本音のコラム(11回目)5月15日付

 人は何らかの社会的な目的を持ったとき、まず志を同じくする者を募って組織を作る。

 その際の目的とは、金儲けであったり政治目標だったりする。

 こうした考え方があること自体は、好きではないが認めるものである。それは大海原に出るときに船に乗るのが常套の手段という意味においてである。

 ところがこの組織というものはやっかいなもので、時間を経ると目的は喪失してしまい、組織そのものを維持することが目的と変質してしまう性を持つ。

 この傾向は組織が生活の手段となることによって加速する。

 ここに「組織のために」というまことしやかな論理が生まれてくる温床がある。

 しかし、目的を喪失してしまった組織は、存在する意味はない。営利を追求する組織として誕生した企業組織は、儲からなくなれば維持してゆく必要はないと考えるのが自然だ。

 まして政治組織などは企業よりもっと厳しくあるべきだ。政治組織は、それを支持する人達の善意によって支えられているだけになおさらである。数十年もの間、時には100年近くも、目的が達成されないとしたら、もはや存在すること自体、害悪といわざるを得ない。

 民間企業はそれでも、利益が上がらない場合は倒産という事態に陥り、自然に消滅する。ところが政治組織は、目的から全く遠のこうが、存在すること自体に意味があるといった屁理屈で生き残ろうとする。

 この国の閉塞は、こうした組織の論理に代表される。

本音のコラム(10回目)5月8日付

 人は何人かが社会的な目的を持ったとき、まず志を同じくする者を募って組織を作る。その際の目的とは、金儲けであったり政治的目標だったりする。

 こうした考え方があること自体は、好きではないが認めるものである。それは大海に出るときに船に乗るのが常套の手段という意味においてである。

 ところがこの組織というものは厄介なもので、時間を経ると目的は喪失してしまい、組織そのものを維持することが目的と変質してしまう性を持つ。

 この傾向は組織が生活の手段となることによって加速する。

 ここに「組織のために」というまことしやかな論理が生まれてくる温床がある。

 確かに組織がないと目的は達成できないと言うこともある。しかし、目的を喪失してしまった組織は、存在する意味はない。それは民間において顕著であり、営利を追求する組織として誕生した企業組織などは、儲からなくなれば維持してゆく必要はどこにもないと考えるのが合理的だ。この苦境を耐えれば又明るい時代が来ると考えるのは幻想に過ぎない。一刻も早く精算するのが自然である。

 まして政治組織などは企業よりもっと厳しくあるべきである。政治組織は、それを支持する人達の善意によって支えられているだけになおさらである。数十年もの間、目的が達成されないとしたら、もはや存在すること自体、害悪といわざるを得ない。

 民間企業はそれでも、利益が上がらない場合は倒産という事態に陥り、自然に消滅する。ところが政治組織は、目的から全く遠のこうが、存在すること自体に意味があるといった理屈で生き残ろうとする。

 これは、官僚の論理である。官僚組織という、生活共同体を維持することだけを目的とする論理と同質のものである。この国の閉塞は、この組織の論理に代表される。

本音のコラム(9回目)5月1日付

 今日はメーデーである。この日がくると、砂を噛むような深い絶望感を持つようになったのはなぜで、いつ頃からだったのかを考えてみた。

 労働時間、最低賃金への要求を労働者が持つのは当然のことであったし、それを要求し運動を展開することもまた当然のことであった。

 問題はその運動を「組織」する党派の問題である。それらの党の内部において1日8時間労働や最低賃金制度は確立されていないと思われる。外に対して要求はするものの、自らの内においてはすべてが許されるという思想の問題は未消化のまま、今に至っている。ここに絶望した。

 99年、国旗、国家法案をめぐる論争の時に、反対する側(もちろん私はそうである)に私が問うたのは、赤旗とインターナショナルには賛成ということであれば、この法案に反対する普遍性は持ち得ないということであった。旗と歌で民衆の精神をある方向へ動員しようとすること、それ自体に反対するということであれば、それは一貫している。しかし、自分たちは「正しい」が故に敵対する側と同じ手法を採っても許されるというのであれば、整合性を持たない。敵対する側が行う戦争は悪であり、これに対して自らが行うのは正義の戦争であるとする思想と通底する。

 この頃、つまり国旗・国家法が成立した99年の頃から、砂を噛むような思いをメーデーに持つようになった。

 そして今年もその旗と歌の日、メーデーが来た。

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