2003年06月

本音のコラム(17回目)6月26日付

 世の中には理解に苦しむことがたくさん起きるものである。例えば、テレビの視聴率の最近の傾向として、イラク戦争中にもかかわらず北朝鮮報道の方が視聴者に好まれ視聴率が高いということなどもその一つである。

 テレビが流す北朝鮮報道の特徴は、表面的な現象を同じ映像と同じ趣向で繰り返し流すというものである。北朝鮮という国家、朝鮮労働党という党が、歴史的、国際的にどのように形成され、何故結果として悲劇的な現状に立ち至っているのかと言うことを報道した番組にお目にかかったことはない。しかしイラク戦争報道の場合は北朝鮮報道とは違い、その原因と結果、そして論理を報道しなくては、テレビ番組として成り立たなかった。こうして曲がりなりにも目の前で起こる事態の原因と結果を検証しようとする報道を視聴者が好まなかったということなのであろう。

 目の前で起きる事態への「情緒的」で「軽い」反応、それが現在の多数派の性向である。この性向は、小泉内閣の支持率と通底するものである。つまりリストラにあってもなお「痛み」を与えた政権を支持するサラリーマンとその家族の気分がこれである。イラク戦争報道よりも北朝鮮報道を好む気分と同質のものである。

 原因があるから結果がある。小泉内閣の失政があるから今の不況が、そしてリストラが倒産があるのだ。こうしたことの原因をこの国の多数派は見たくないようである。

本音のコラム(16回自)6月19日付

 社会には、様々な対立がある。またその対立が歴史を動かしてきた原動力でもある。この対立には、民族、宗教、国家、階級、党派、そして文化等々があり、その種類は実に多様である。

 ところが、その対立は厳しければ厳しいほど対立する相互が瓜二つのものになっていくという宿命的ともいう特徴がある。例えばユダヤとナチである。ナチによって徹底したジェノサイト(民族浄化)の被害を受けたユダヤは、まったく同質の行為を今パレスチナに行うこととなっている。

 こうした例もある。旧ソ連を中心とする社会主義と対立したアメリカは、旧ソ連がスターリンの下に企図した「革命の輸出」と同質の「グローバリズム」を今求めるに至っている。

 つまり対立し敵対した相手の悪しき体質をさらに純化させ、その胎内に醸成していくということである。

 こうして対立は新たな対立を再生産するという輪廻転生的な側面を持つ。とかく人の営みとは、かくも空疎なものなのである。そうであるなら、人は対立する渦中にあるとき、その対立は虚ろなものであると言うことをどれだけ自覚できるかが「知」の水準ということになるのではないだろうか。

 そして今アメリカは反テロリズムということでイスラムと対立している。また日本は反北朝鮮と言うことで対立の感情を露わにしている。こうしたことの結果がそれぞれの内にテロリズムと朝鮮労働党的なるものを間違いなく育んでいくのである。

本音のコラム(15回目)6月12日付

 人の歴史は闘いの歴史である。この言葉はけだし名言である。

 人は戦うときに数々のドラマを体験する。それが蓄積されて、文化が生まれる。

 闘いの中での喜怒哀楽は実に身に迫る説得力を持つし、共感を呼ぶものである。

 しかし、現代に本当の闘いというものが存在するのかどうかは、はなはだ疑問である。

 サッカーや格闘技熱は、それを見物する側が感情移入し、あたかも自らが戦っているかのような錯覚を楽しむというものである。この際、自らは絶対に安全なところに身を置いているということにその特異性がある。

 さらに、そこで展開される、サッカーにしろ格闘技にしろ、それは闘いではない。闘いを連想させる擬似行為である。

 擬似行為を闘いと称し、それを見物することも闘いと思いこむこの精神は、自らが敵とするものが表象性を喪失したことから始まったと思われる。

 たとえば国家権力を敵としていたとき、機動隊という存在は、暴力という表象性を持っていた。そして、この敵と対峙している側には、肉感的な情感が蓄積され、それなりの文化が形成されたものである。

 それがいつ頃からか変化し始め、国家権力=暴力という表象性が消失したかのように見える。権力がバーチャルなものとなるに連れて、それと対峙する側も同様になってしまう。

 こうして、人の歴史は闘いの歴史という言葉がその血肉性をなくしていった。

 はたしてこの名言の復権はあるのだろうか。

本音のコラム(14回目)6月5日付

 本年5月1日、山口組幹部の桑田兼吉氏に対して上告棄却の最高裁決定が下された。これによって同氏の有罪は確定した。

 この事件は、警察の逮捕、検察の起訴という初発の段階から、典型的な権力の濫用そのものであった。そうした内容はさておき、最高裁でこの裁判を担当したのが、元神奈川県警本部長の伴侶の女性判事であるところに問題の深刻さがある。

 警察不祥事の総合商社といわれる神奈川県警では、取調室で警察官が元ヤクザを射殺したとされるいわゆる「戸部署事件」があり、横浜地裁の民事はこの事実を認定したものの、刑事ではお構いなしという整合性に欠ける事態が発生しているところである。つまり、きわめて不正常な警察行政の責任者として関与した可能性が高い伴侶が最高裁の判事として存在しているということは、どのように強弁しようと社会的公平性を欠くものと言わざるを得ない。

 これまでのこの国の裁判所は、警察官の犯罪に対しては、一般と比較して5割安という判決を重ねてきた。このことは、現代社会における建前としての「法の下の平等」が完全に崩壊しているという証左である。

 今回の桑田判決は、裁判所が不平等に加え「人」の問題まで内包していることをはしなくも露呈した。

 社会のシステムとして裁判所にその役割を求めるということはもはや無駄ということである。官の官による官のための裁判が、今後も行われてゆくであろう。

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