2007年11月

 20年位前にこんなことを経験した。
 60年代の中頃、早稲田の私より一年後輩で、実家が九谷焼の窯元だった男の嫁から「夫が家出した」との電話が入った。家出の理由には、心当たりはあるが、最後には私に連絡してくるだろうということで、私に電話をしたというものだった。自家用車で家出したということを聞いた。
 瞬間、この男が必ず早稲田の大隈講堂近くに来ると私は確信した。結局その確信は、はずれることとなったのだが、私がこのように考えたのは、この男についてのある記憶による。
 それは1966年の秋、この男の前で、今となっては詳しいことは忘れたが、常日頃この男を小馬鹿にしていた敵対する党派の活動家に、私がアッパーカットを喰らわせてノックアウトしたことがあった。この男にはそのことがよほど嬉しかったのだろう。その「アッパーカット」の話を「スゴイことだ、スゴイことだ、これが『革命』だ」と興奮して口走り、その後2~3時間も大隈講堂の階段に腰かけて、彼が予備校の時に活動家になった話等々を私に話しかけてきた。
 その時のこの男のキラキラした目の輝きの記憶が、私には忘れられないものとして残っていた。こうしたことから私は、家出し仮にその後自殺など考えるようなことがあっても、’66年の時に持った高揚感を思い出すべく早稲田に戻ってくると考えたのである。
 この男、井出秀男君は、’68年には親に実家に戻されることとなる。予備校時代の1年間と大学を中退するまでの約3年間が、彼の短い活動経験である。
 次回からは、彼がほんの短い活動経験ながら、その中で何に心を動かされて、何を心の中に仕舞いこみ、大学を去ったのかを考えてみることにする。

 今年に入って忙しい日々が続いていたが、昨日、偶然早稲田大学の近くで時間が空いた。そこで大学周辺を1時間程散策した。私が大学にいた1965年~69年の頃の匂いは全くなかった。その事自体に少し淋しい思いはしたものの、「ちょっと待てよ」と思った。そしてこんな事を考えた。
 1945年にこの大学に通っていた人達は、その20年後の僕等が居た時には、今私が持つよりも、もっと強い「差」の感じを持っただろうということである。歴史の流れの速度は、速い時と遅い時があると思う。1945年からの20年間は、その速い時にあたる。だがそれは、その時には実感できないものだ。しかし、私の1965年~69年は、その「速さ」が私には実感できた時だったと思われる。
 さて、この種の思いは、時の移ろいへの郷愁といえば一言で済む話であるが、それぞれの人間がそれぞれの時間をこの場所で過ごした。そしてそれぞれの場所へと移っていった。それだけのことなのであるが、その時ここで持った思いと、確かに私の内にあった「情熱」みたいなものへのノスタルジーが今も強くある。これが何故なのか、何なのかを、私はこれからのテーマとしてみようとこの1時間の散策で思いついた。
 だから次回以降、何回かにわたってこのコラムで、私が1965年~69年ここでどんなことをやっていたのか、何を感じていたかを思い出してみようと思う。

連帯運動(http://www.rentai.info/)第7回討論集会

人権派弁護士?!「悪魔」の弁護人?!

安田好弘弁護士に聞く
「なぜ私は弁護に立つのか」


「新宿西口バス放火事件」や「山梨幼児誘拐殺人事件」などの死刑求刑事件の弁護士として、死刑判決を回避させた実績を持つ安田好弘弁護士は、現在でもオウム真理教の教祖麻原彰晃被告、和歌山カレー事件の林真須美被告、光市母子殺害事件の上告審における被告などの主任弁護人を務めている。

日本では、このような有名凶悪事件の弁護を引き受けることは、弁護士経歴に傷がつく、メディアや世論からバッシングを受けやすい、費用の回収があまり期待できない、などから弁護人のなり手は極めて少ないという。

にもかかわらず安田弁護士は、自ら刑事事件被告に陥れられながらも、一連の難しい裁判に果敢に挑戦し続けている。

今回の講演・討論集会は、この安田弁護士のエネルギーの源に何があるのか、その信念を率直に語ってもらい、日本の刑事裁判の在り方を共に考えたい。

講師:安田好弘弁護士

日時:11月15日(木)18:30~21:00(開場18:00)
会場:日本教育会館一ツ橋ホール7階中会議室
参加費:1,000円(資料代含む)

内容:バックパッカーから弁護士へ
        「新宿西口バス放火事件」との出会い
    日本の刑事裁判での問題点
    ・警察の捜査
    ・検察の論告
    ・裁判所の審理
    ・メディアの報道
    自ら被告となって考えたこと
    それでもなぜ闘うのか

「生きる」という権利

 民主党の小沢一郎氏の辞任騒動を見て、ふと考えた。そして自分があの小沢氏の立場であったら、同じことをやってしまうだろうと思った。
 党内に対する説明不足、一度記者会見で発表した「辞任」の表明を覆したこと、渡辺恒雄氏等の仲介を受け入れたことへの違和感等々、批判が数々あることは百も承知の上での行動であったと推測される。
 今回の小沢氏の考えの根本には、自民党の中枢にあった彼にしかわかり得ない独得の「自民党の終焉」への直感があった。前回の参院選の結果、国会が機能不全に陥り、もはやこれまでの自民党・公明党の政権与党が成り立たなくなっている。そうした時、敵=自民党の内部に大きく手を突っ込んで、終焉のスピードを加速する。そのような発想は、メディア等が得意気に語る「開かれた政治」からは生まれてこない。むしろ、後に起こる自らの責任についての批判を度外視した、ある面では捨身の行動、それは「ボス交」とも言われるような行動が、歴史を動かすことがある。小沢氏の考え方がこれだったのではないかと私は思う。
 しかし、この「直感」を今の民主党の党内的説明をいくらしたとしても、賛成を得られることは絶望的であったろうし、むしろこの際と、足を引っ張られることの方が多いとの判断を小沢氏がしたとしても、それは大いに納得できる。
 「自民党の終焉」という絶好のチャンス、しかしそれを理解し得ない民主党の大半ということで、小沢氏には「先」が見えてしまったのだろう。その意味では、「先が見えることの不幸」であったと思う。こうしたことは、よくあることでもある。
 11月8日、台湾の畏友、陳啓禮氏の葬儀に参加しながら、ふと考えた。

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