カテゴリ: 幻のコラム

 20年位前にこんなことを経験した。
 60年代の中頃、早稲田の私より一年後輩で、実家が九谷焼の窯元だった男の嫁から「夫が家出した」との電話が入った。家出の理由には、心当たりはあるが、最後には私に連絡してくるだろうということで、私に電話をしたというものだった。自家用車で家出したということを聞いた。
 瞬間、この男が必ず早稲田の大隈講堂近くに来ると私は確信した。結局その確信は、はずれることとなったのだが、私がこのように考えたのは、この男についてのある記憶による。
 それは1966年の秋、この男の前で、今となっては詳しいことは忘れたが、常日頃この男を小馬鹿にしていた敵対する党派の活動家に、私がアッパーカットを喰らわせてノックアウトしたことがあった。この男にはそのことがよほど嬉しかったのだろう。その「アッパーカット」の話を「スゴイことだ、スゴイことだ、これが『革命』だ」と興奮して口走り、その後2~3時間も大隈講堂の階段に腰かけて、彼が予備校の時に活動家になった話等々を私に話しかけてきた。
 その時のこの男のキラキラした目の輝きの記憶が、私には忘れられないものとして残っていた。こうしたことから私は、家出し仮にその後自殺など考えるようなことがあっても、’66年の時に持った高揚感を思い出すべく早稲田に戻ってくると考えたのである。
 この男、井出秀男君は、’68年には親に実家に戻されることとなる。予備校時代の1年間と大学を中退するまでの約3年間が、彼の短い活動経験である。
 次回からは、彼がほんの短い活動経験ながら、その中で何に心を動かされて、何を心の中に仕舞いこみ、大学を去ったのかを考えてみることにする。

 今年に入って忙しい日々が続いていたが、昨日、偶然早稲田大学の近くで時間が空いた。そこで大学周辺を1時間程散策した。私が大学にいた1965年~69年の頃の匂いは全くなかった。その事自体に少し淋しい思いはしたものの、「ちょっと待てよ」と思った。そしてこんな事を考えた。
 1945年にこの大学に通っていた人達は、その20年後の僕等が居た時には、今私が持つよりも、もっと強い「差」の感じを持っただろうということである。歴史の流れの速度は、速い時と遅い時があると思う。1945年からの20年間は、その速い時にあたる。だがそれは、その時には実感できないものだ。しかし、私の1965年~69年は、その「速さ」が私には実感できた時だったと思われる。
 さて、この種の思いは、時の移ろいへの郷愁といえば一言で済む話であるが、それぞれの人間がそれぞれの時間をこの場所で過ごした。そしてそれぞれの場所へと移っていった。それだけのことなのであるが、その時ここで持った思いと、確かに私の内にあった「情熱」みたいなものへのノスタルジーが今も強くある。これが何故なのか、何なのかを、私はこれからのテーマとしてみようとこの1時間の散策で思いついた。
 だから次回以降、何回かにわたってこのコラムで、私が1965年~69年ここでどんなことをやっていたのか、何を感じていたかを思い出してみようと思う。

 民主党の小沢一郎氏の辞任騒動を見て、ふと考えた。そして自分があの小沢氏の立場であったら、同じことをやってしまうだろうと思った。
 党内に対する説明不足、一度記者会見で発表した「辞任」の表明を覆したこと、渡辺恒雄氏等の仲介を受け入れたことへの違和感等々、批判が数々あることは百も承知の上での行動であったと推測される。
 今回の小沢氏の考えの根本には、自民党の中枢にあった彼にしかわかり得ない独得の「自民党の終焉」への直感があった。前回の参院選の結果、国会が機能不全に陥り、もはやこれまでの自民党・公明党の政権与党が成り立たなくなっている。そうした時、敵=自民党の内部に大きく手を突っ込んで、終焉のスピードを加速する。そのような発想は、メディア等が得意気に語る「開かれた政治」からは生まれてこない。むしろ、後に起こる自らの責任についての批判を度外視した、ある面では捨身の行動、それは「ボス交」とも言われるような行動が、歴史を動かすことがある。小沢氏の考え方がこれだったのではないかと私は思う。
 しかし、この「直感」を今の民主党の党内的説明をいくらしたとしても、賛成を得られることは絶望的であったろうし、むしろこの際と、足を引っ張られることの方が多いとの判断を小沢氏がしたとしても、それは大いに納得できる。
 「自民党の終焉」という絶好のチャンス、しかしそれを理解し得ない民主党の大半ということで、小沢氏には「先」が見えてしまったのだろう。その意味では、「先が見えることの不幸」であったと思う。こうしたことは、よくあることでもある。
 11月8日、台湾の畏友、陳啓禮氏の葬儀に参加しながら、ふと考えた。

 確かに年をとると物忘れが激しくなる。最近、人の名前と顔が一致しなかったりすることが多くなってきた。
 しかし、10月29日の衆院テロ防止特別委員会での、守屋武昌前防衛省事務次官の証人喚問の報道は、5年前の鈴木宗男氏喚問時のイヤな感じの記憶を鮮明によび起してくれた。
 5年前、辻元清美議員が「疑惑の総合商社」と声を荒げて鈴木氏に迫る映像を見ながら、私は「イヤな感じ」を持った。この時の喚問の直後には、検察の手によって逮捕されることが確実な鈴木氏を問いつめることへの反発があった。それは、国家権力の手のうちで踊らされ、つまるところ、権力に担保された辻元氏の質問の言葉だけの「戦闘性」への私的な拒否反応であった。その後生まれた「国策捜査」という言葉の契機となった喚問だった。
 さて、そこで今回の喚問である。鈴木氏の時もそうであったように、今回も検察権力は、そのシナリオの中でこの喚問を位置づけているであろう。
 例えば、誰が、守屋氏が200回を超える業者のゴルフ接待をリークできるのは、検察以外にはないことは明らかだ。そうだとするなら、必ず「国策」性を持つ検察の捜査の一部品として今回の喚問を見る必要がある。
しかし、日本にメディアは、その部分にだけは今回も触れることはない。日本のメディアの知力は、物忘れが激しくなってきた私の脳ミソと、どっこいということなのか。

 ここ数年、’60年世代の私達の間では、小泉政権から安倍政権へと続く流れの中で、「改憲」についての危機意識が高まったということがあった。
 齢60才を超えた者達が、人生最後の政治参加の機会として、つまり死に場所として、この「改憲」反対の運動に過剰なる思い入れをしていた。
 しかし、私は、同世代のこの種の発想には、ほとんど共鳴することができなかった。その理由は、この国においては、どのようなスローガンをかかげた運動であっても、キャンペーン型の運動の域を出ないのであって、それは意味がないと考えるようになったからだ。
 もちろん、ある個人や、ある団体が政治目標をかかげて、広く国民を覚醒させるべく行う啓蒙型の活動があってもそれは自由ではある。私が問題とするのは、その活動を行う人々の中にある、「目覚めた私と眠った民衆」という旧態依然たる発想のことである。この発想の中には、「正しい自分」が存在している。これをつきつめていくと、「自分は正しいが、他人は間違っている、間違っているとは言わないまでも、わかっていない」ということになる。この発想が私は嫌いなのである。
 私は人間などというものは、実にいいかげんなものであって、何度も何度も間違いを犯して人生を歩むものと思う。だから「自分は正しい」などとは、恥ずかしくて言えないと思う。’60年代の友人達がこの点について自己切開なしに「新しい」スローガンをかかげることに共鳴できない理由はここにある。頭の中を整理することから私は始めようと思う。

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