カテゴリ: 今週のポピュリズム

沖縄問題への視点
60年代、私は次の歌を何度も何度も唱ったことがある。「沖縄を返せ」という歌である。

固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我等と我等の祖先が血と汗もて 守り育てた 沖縄よ
我等は叫ぶ沖縄よ 我等のものだ沖縄は
沖縄を返せ (返せ) 沖縄を返せ
2(1番の繰り返し)
固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我等と我等の祖先が血と汗もて 守り育てた 沖縄よ
我等は叫ぶ沖縄よ 我等のものだ沖縄は
沖縄を返せ (返せ) 沖縄を返せ

この歌の誕生は1956年10月、九州、三池闘争の頃で、沖縄復帰闘争を題材に作られた。初めはもの悲しい短調の曲だったが、歌声運動の大御所・荒木栄が勇ましい行進曲に変えたのである。

さて私がこの歌に出会った、60年代当時は、ベトナム戦争の激化という時代的背景もあり、反米的なこの時代のムードを象徴する歌の一つであった。

ところで、私などは、この「沖縄を返せ」という歌を唱うに当たっては、何のためらいも持たなかった。むしろ、この歌の1番、2番の最後の「沖縄を返せ」「沖縄を返せ」と繰り返すところは、特に声を大きくして唱ったものである。だが私は今、この歌を唱ったことを一生の不覚であると考えるに至っている。
百歩譲ってこの歌の「沖縄を返せ」、まではいいとしても、最後は「沖縄に返せ」と唱うべきであった。
それは琉球とヤマトの歴史関係への雑駁な理解が、歪曲された民族主義へと傾斜し、それが戦後の沖縄返還運動の欠落した思想であり、沖縄返還運動に関わる、ポピュリズムの原点であったと考える。このポピュリズムを下支えしたのが革新系の返還運動であった。そして、このポピュリズムをテコとして、1972年の沖縄返還は行われた。しかし、その内容は、沖縄の痛みを共有するというものではなかった。
つまり沖縄と本土の歴史の本質は、「差別」そのものである。「差別」が持つすべての残酷なものがそこにある。今回の普天間問題で沖縄の人たちに対する差別の上塗りだけは許してはならない。

友人の作家である佐藤優が、琉球新報2010年5月15日号で「沖縄の未来のために、沖縄人が名誉と尊厳をもって生き残るために、保守、革新の壁を越えて、『われわれの沖縄の利益』だけを考え、団結しようではないか。」と主張していることに私は同意する。
沖縄問題についてのポピュリズムは、沖縄の人たちの苦渋の歴史への冒涜であり、今、官僚、メディア、そして政治家が語る沖縄についての「言葉」には真実のカケラも見受けられない。

検察審議会が小沢一郎氏に対して行った議決が、根底的な誤謬を含むものであることは前回指摘した。
今回は、検察審査会のこの見え透いた根本的な誤謬を何故、誰もが批判できないのかという問題を考えたい。
それは、この国の成り立ちと深く関わるところがあると私は考える。
2006年1月22日付の朝日新聞紙上で、柄谷行人は、私の著書の評者として次のようなことを書いている。
(中略)
 『通常、社会は、個別社会の掟で運営されており、掟ではカバーできないときに法が出てくる。ところが日本社会では、そういう関係が成り立たない。掟をもった自治的な個別社会が希薄であるからだ。著者によれば、その原因は、日本が明治以後、封建時代にあった自治的な個別社会を全面的に解体し、人々をすべて「全体社会」に吸収することによって、急速な近代化をとげたことにある。
 ヨーロッパでは、近代化は自治都市、協同組合、その他のアソシエーションが強化されるかたちで徐々に起こった。社会とはそうした個別社会のネットワークであり、それが国家と区別されるのは当然である。しかるに、日本では個別社会が弱いため、社会がそのまま国家となっている。そして、日本人を支配しているのは、法でも掟でもなく、正体不明の「世間」という規範である。』
この「世間」という、あいまいなものがこの国を支配している、だからこそ、「市民目線」という言葉に適格な批判的反応ができないのである。
そして問題なのは、この検察審査会の議決が反小沢、反民主党のメディア・スクラムの主柱の一つとなっていることである。
次週では、「沖縄問題」をめぐるポピュリズムについて考えることとする。

平成22年4月27日に議決された小沢一郎民主党幹事長に対する東京第5検察審議会の決定は、類い稀なる「ポピュリズム」であった。
同審査会が発表した「議決の理由」の中には、次のように書かれている。
「絶対権力者(筆者注:小沢一郎氏のこと)である被疑者に無断でA・B・C(筆者注:逮捕された元秘書等の関係者)らが本件のような資金の流れの隠蔽工作等をする必要も理由もない。」
さらに「近時、『政治家とカネ』にまつわる政治不信が高まっている状況下にあり、市民目線からは許し難い。」
この「絶対権力者」、「市民目線」という二つの言葉を私はポピュリズム的表現の最たるものと考える。
そもそも、検察審査会なる制度は、時によっては、その対象となる人物の自由を束縛する可能性を持つ決定を行うことのある制度である。
個人の自由を制限する決定を行う際は、当然のことながら、予断や偏見を極限まで排除すること、感情に流されないことが原則となる。そうでなければ、リンチを容認するのと等しい制度となるからである。
さて、中世のヨーロッパでもあるまいに「絶対権力者」というような時代錯誤のレッテルを貼ったり、「市民目線」というポピュリズムむき出しの表現によって示される「世間」への迎合を「自白」するような空疎な内実がこの議決である。そしてそれがこの社会を動かそうとしている。
ところで「市民目線」が貫徹した社会とは一体どのような社会なのだろうか。それは個性が徹底的に排除されたデオドラントで無機質な社会のことである。ところがこの自明の理とも言える今回の「議決」に見られる「言葉」の羅列を批判することもなく容認する空気がある。
この国と社会は実にくだらないものとなった。

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