個が融解する反演劇的空間の電子ネットワーク

 

新しい共同体としての可能性はあるか

     別役 実   宮崎 学


インターネットを通じた青酸カリ売買で自殺者が出た「ドクター・キリコ事件」や、携帯電話を使った「伝言ダイヤル事件」など、新しいメディアをきっかけとする犯罪が相次いだ。背景に、対人関係の歪みがあると指摘する二人が情報化社会に警鐘を鳴らす。
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別役 
 インターネットで毒を売り買いするとか、伝言ダイヤルで知り合った男に睡眠薬を飲まされて凍死するとか、僕らの青春時代には考えもしなかったような犯罪が起きてますね。どうも、ネツトワークを通して、新しい共同体というか、陰の共同体というか、そこで得体の知れない営みが行われているような気がする。


宮崎 
 僕は自分のホームページを開いていて、メールのやりとりもしていますが、インターネットでの情報の広がり方はすごいですよ。あるホームページからまったく別のホームページに、クリックひとつで瞬時に移れる。これをやってると、いくらでも別のぺージに入っていける。情報がどんどん横に広がっていくんです。

別役
 ホームページ同士がつながってるわけだ。情報が情報を呼ぷというか、それ自身で増殖していくみたいな感じですね。


宮崎
 それが楽しくて、本格的にやり始めたら夜も寝ないで画面を見続けてる。アメリカじゃパソコン中毒者が出たらしいけど、日本も明らかにそうなってますよ。

別役
 よく聞く話なんだけど、メールとかパソコンネットワークでひんぽんにやりとりしてた人たちが、実際に会ってみると非常に気まずくなってしまう、ということがあるでしょう。僕の知ってる人で釣り好きの人がいるんだけど、あるとき、この人が釣り関係のホームページで、よくメール交換をしてた人と会ったんです。面と向かい合ったら、何をしゃべったらいいかわからなくて、すぐ別れたんだけど、その後、またパソコン通信に戻ったら、すんなりコミュニケートできたというんです。


宮崎
 同じ論理の裏返しなんだと思うけど、電子メ−ルのやりとりだけで恋愛してた男女が、初めて会ったとき、すでにセックスも済んでるように感じることがあるといいますね。かつての文通、ペンフレンドでもそういう錯覚は起きたげれど、肉筆で書いた手紙を交換し合うのと、キーポードで「あなたのこと好きです」と言ってるのじゃ何か違いますよね。

別役
 こういう話は、今のネットワーク上の対人関係の状況をよく伝えてると思います。

宮崎
 ネット上での対人関係は、本当に戸惑いますよ。これは実感なんだけど、僕の本を読んだ人がホームベージに感想とか政治間題についての意見を送ってくるんです。だから僕も「こう思う」とか書きます。そういうやりとりを何回かしてると、その人は僕と何十年来の知已であるように思うらしくて、突然、メールの内容が私的なものになってくるから困る。

別役
 最近、演劇の世界でもそういう傾向がありますよ。現実的で生活感のある、個人の皮膚感覚的なものと、突拍子もない超非現実的なものをいきなりくっつけてしまう。これまで近代劇がつくりあげてきたもの、人と人がある距離をもって、お互いが言語を通じて確かめ合ったり葛藤を繰り返したりする、というドラマがすっぽり抜けているんです。本来は、この中間の対人関係に生じるドラマこそが演劇だったんですがね。

宮崎
 人との距離感が変わってくるにつれて、ドラマというものも変わってくるんですね。

別役
 対人関係の距離感について、僕は、絵画でいうところの「近景」「中景」「遠景」という諭理を用いているんです。近景というのは皮膚感覚でお互いに感じ取れる部分のことで、遠景は神秘的なものとか占いを信じるようなこと。ところが今、中景が抜けてしまって、近景と遠景がネットワークを通じていきなりつながっている。


官崎 
 ホームページを見るという行為は「遠景」の論理。そこで発信者にメールを送ってしまうという行為は、まさに「近景」の諭理ですね。ホームページに詳しい情報オタクの人は、情報量だけはものすごく持ってる。でも、自分の身をもって知るという体験がきわめて少ないから、現実に起きる事態への対処は下手だし、面と向かい合うような対人関係も結べない。非常に耳年増であり、じつはウプなんです。だから、詐欺まがいのマルチ商法や宗教が出てくると、いとも簡単に引っかかっちやう。

別役
 おカネを振り込まれたら、見知らぬ人にでも青酸カリを送ってしまうという感覚は、そういう距離感の歪みが作用してるんでしょうね。面と向かい合う対人関係じゃなくて、得体の知れない何かを共有し合うような関係があるみたい。

宮崎
 これって、新しい共同体意識なんじゃないかな。ある種の連帯感を感じているんだと思います。インターネット空間は、若い世代で独占されてる感じがします。おじさん連中を排除して自分たちのものにしておけば、いつか自分たちの時代が来る、社会を変えられるんだという幻想を持ってるようなところがありますね。

別役
 僕らの世代が持つている共同体のイメージは、いわゆる前近代的な村落共同体のイメージです。たとえば同じイデオロギーを持つ、左翼的で革命同志的な個人がグループを形づくるというように。そこでは、同じ釜の飯を食い、恥をさらし合うという形で、お互いの人間性を確認してきたんですね。それが核家族化、都市化によって崩壊した。それに代わって、宗教が新しい共同体として若い人たちを吸収するだろうと言われた。オウムなんてその典型ですね。人間は、共同性を持たなければ個であることもできないから、共同であるごとを確認するべースとして、今は宗教とかバソコンネットワークといったものが使われているんだろうな。


宮崎
 僕らにとって、六〇年代の学生運動が「若衆宿」的な意味を持っていたとすれば、今の若い世代にとってはそれがパソコンのネットワークである』ような気がします。かつての若衆宿でのキーワードは権力だったけど、今はそれが情報になっているんでしょう。自分の部屋にいて、誰からも干渉されず、誰とも向かい合わずに、情報だけがどんどん入ってくる状況は、かつてのように、生身の肉体をあちこちにぶつけて大人になっていく過程や、社会の仕組みを知っていくこととは、まったく違いますね。今は、ホームページを流れている情報のなかに浸ることが、彼らにとって社会とつながっているという実感を持ちうる方法なんだろうと思いますね。

別役
 つねに情報と皮膚を接していることで、安心感を得られるという感じはある。

宮崎
 今、若い子のほとんどは携帯電話を持ってますしね。

別役
 僕は電話がきらいなんで、外に出るとホッとするんだけど、携帯電話は。いつも身につけるものでしょ。。だから、どうしてあんなものを持っていたいのか、僕には理解できなかった。しかも、とくに用があるわけじゃないのに、「どこにいるの」とか「何してるの」とかしゃべってる。これは、電話というメディアの特徴だと思うんだけど、しゃべっていることでお互いが取つ憑き合うような、つまり「憑依する共犯関係」を生んでいるという感じがする。それに加えて、世間とか情報自体につながってると安心できるという感覚もあるんでしょうね。

官崎
 僕らの感覚だと、何か目的を持って行動するときに初めて情報を必要としますよね。でも、彼らは情報そのものを楽しむ。情報が娯楽なんです。一方で、インターネットをよくやる人たちのなかには、自分の発信する情報が社会を変える可能性があると思っている人がいます。

別役
 そういうの、ありましたね。地雷禁止の草の根的な市民運動が、やはりインターネットを使って情報発信してるうちに、いつのまにか世界中に広がって、とうとう対人地雷全面禁止条約実現までいったという。その結果、ノーベル平和賞をとったんですね。


宮崎
 ところがそれは、日本の若い情報オタクには当てはまらないと思いますよ。僕は、いま「よど号」事件の田中義三がタイで捕らえられた偽ドル事件は冤罪だと、自分のホームページで訴えているんですが、そこで「タイの刑務所ツアー」を呼びかけたら、かなりの人が参加したんです。でも、誰かが彼らを政治的にオルグしようとしたら、みんな強い拒否反応を示したんですね。つまり、彼らに政治的な利害関係を持ち込んではダメなんです。彼らが何かに参加したとしても、あくまでも自分たちが許容できる範囲で参加するのであって、彼らの全生活や全人生をかけるような政治的要求をされたら猛反発するんです。そういう意味では宗教も、あからさまな勧誘は反発されるでしょう。日本の特殊事情なんだろうけど、インターネットは世代間の意識の違いを見せつけます。

別役
 僕は、パソコツネットワークとか情報世界の自由というものは、認めるんですよ。でも、それがどんどん特殊化されていくような恐れがどうも気になる。薬物の売買がなされたり、詐欺に使われたりと、暗い方向へ傾いてるでしょ。だいたい「ドクター・キリコ」というホームページができて、毒が売り買いさ机ること自体、情報がかなり特殊化、隠語化されてるように思うんですよ。今、警察はおおわらわで摘発しようとしてますね。


宮崎
 インターネットを使った犯罪が起きると、すぐに規制しろという話が出てくるけど、このネツトワークは物理的に規制できない空間なんです。いいか悪いかという問題じゃなくて、規制する方法がない。つまり、国内だけなら登録業者を押さえておけばいいんだげど、アメリカの業者に移し変えてしまえば、日本の法律では規割できないんです。

別役
 金融経済はマレーシアのように鎖国できる。政治だって北朝鮮のように閉ざすことができる、でも、情報はできないんですね。


宮崎
 インターネットは仮想現実、いわば鏡に映った像みたいなものだと思うんです。だから、実像である社会のほうが変わらなければ、いくら鏡に映ったほうを規制したところで、何の意味もない。

別役
 そう、まず実体が先にあるんです。情報が洪水のようにあふれて世の中を飛ぴかってるけど、実はそれは虚像であると、だから、基本的に対人関係を確かめ合う現実の生活があって、その補助線として、パソコンネットワークという情報交換装置が備わってるならいい。だけど今、生活そのものがネヅトワークのなかにどんどん吸収されて、実体を見失っていくんじゃないかという恐怖があるでしょ。情報交換装置がプラツクホールみたいになって、そこに実体が吸い込まれてしまうという感じがありますね。そこがきちんと認識できて、情報と実体の距離感をつかんでいればいいんだけど、物心ついてすぐパソコンネットワークに入っていっちゃう若い人たちは、そこのところが確かめられていないと思う。


宮崎
 古い話ですが、かつてレーニンは、共産主義の考えについて鉄道を引き合いに出しました。交通手段としての鉄道は一本の線路で目的地までつながっていて、みんなが同じ列車に乗って同じ場所に運ばれた。それが今、自動車になったんですね。クルマは一人一人が運転するから、走る道も行き先もそれぞれ違う。情報の流れも、かつては新聞とかテレビとか、発信する媒体や方向が限られていて、鉄道的だった。でも、インターネットは誰もが発信者になれる、いわばクルマ的メディアです。その結果、現代はあまりにも個人的である方向に向かいすぎてるような気もするんです。

別役
 情報の自由化という点では、それはいいことだと思うよ。ただ、生死の問題までもが情報化されて、ネットワークのなかで自由に操られるようになった状況が、ちょっとつらい感じがする。青酸カリをネットワークで手に入れて自殺したのは、「自分が死ぬ」という実感があってやったことではないように思うんです。「自分が死ぬ」ということさえ、ひとつの情報にすぎないととらえられてるようなところがあるんじゃないか。


宮崎
 生死の間題が、実体としてでは
なく、虚像のなかでとらえられることへの違和感が、僕らにはありますね、おそらく五十代以上の世代にとって、肉感的であることは共同体の原理だった。時代は古いものを壊しながら進んでいくものではあるけれど、今という時代は、この肉感的な部分を破壊する方向へ進んでいると思うんです。


別役
 そうですね。肉感的にとらえるという場面がどんどん減ってきて、僕自身もよりどころがなくなったという感じは持ってます。


宮崎
 僕らが学生のころ、仲間が集まる場所は、喫茶店だったんですね。そこで、手を伸ばせば触れあえる距離で会話をした。ところが今、喫茶店に若い子なんて集まらないでしょ。みんなファストフードに行く。あるいはコンビニで雑議を立ち読みしながら待とう、とかね。

別役
 コンビニが便利だったり、気楽だど感じる部分は、確かにあるんですけどね。


官崎
 ええ。外国に行ったりすると、僕もそう思うときはある。でも、客と店との間に皮膚感覚的な接触はまったくないですからね。顔があってないようなもの。それと同じことがインターネット空間でも進行してるんじゃないでしょうか。つまり、もっとも肉感性を喚起させるばずの生死の問題までが、抽象化されて、インターネットというメディアで飛び交う時代に入ったという気がします。

別役
 新しいメディアが何を壊してるかを認識するのと同時に、、既存のメディアの責任というものも問うべきでしようね。。


宮崎
 そうなんです。バーチャルなものを信奉する萌芽は、実は現在のメディアのなかにむしろあったんじゃないかと、僕は考えているんです。オリンピツク招致疑惑で今ごろ騒いでいるけど、ああいうカネまみれの話があるだろうな、ということは漠然とながら、みんな思っていただろうし、報道する側は取材の過程でもっと具体的につかんでいたでしょう。ところが、平和の祭典とか、感動の物語とか、虚像の部分だけが新聞やテレビで流され、受け手のほうもそれに気分よく浸っていたわけです。サッカーのワールドカツプもそうだと思いますが、大きなスポーツイベントは、かなりの部分がメディアによって操作され、架窒のドラマに仕立て上げられてきたんじゃないでしようか。視聴者も、その架空性とかウソつぽさにはそろそろ気づき始めてるだろうし、肉感的なものを求めてるだろうけど、人工的なドラマに慣らされすぎたところもある。

別役
 いつのまにか慣らされた、という感じですね。`


宮崎 
 この部分が肥大すると、作られたドラマだということを知りたくないどいう気分、もっと酔わせてほしいという欲求が出てきます。だけど、作られたものは、やがてはボロが出てしまう。結局、「いっそ自分で架空空間を作ろう」というほうへ流れていくんだと思いますね。

別役
 そういう意識的な部分とは逆に、ネットワーク時代を表すひとつの感覚として、無意識というものもあるんじゃないだろうか。パソコンネットワークの対人関係から、僕は、家族のつながりとか親子の関係を連想するんです。親子の関係は入会の儀式があるわけでなく、いつの間にか長男だったり次男だったりする、そういう自然発生的なつながりでしょ。伝言ダイヤルにメッセージを残すとか、誰かのホームページに入るという感覚は、それと似てるように思うんです。いつのまにか、無意識にやっているという感じ。だから、ネットワークのなかにいて、メールでコミュニケーションしてると安心できるというのは、家族のなかにいると安心できるというのと似た感覚じやないかな。


宮崎
 ネットワークを考えるうえで、もうひとつのキーワードに匿名性というものがあると思うんですよ。僕のホームペ−ジには、多いときで一日に七百人ぐらいからアクセスがあり、四、五人からメールが来るんですが、大半は匿名とかペンネームです。僕がシャレで「キツネ目組」と言ってるから、「カナダのネコ目です」とか「神戸のイリオモテヤマネコです」とか言ってくるんだけど、匿名やペンネームのメールのほうが、実名のものよりはるかに内容がビビッドですね。自分の心を存分に発露してるみたいで。作家だって、ペンネームを使ってるほうが多いわけだし。

別役
 ペンネームとか芸名だと、自分でない誰かを演じられることによってハイになれますね。役者になれる。フィクションとしての自分を演じると、一時的に「宇宙のなかの存在」という、非常に大きいものになったような気がするんですね。隠れる、実体を隠すという意味の匿名性はネット犯罪の問題にされているけど、フィクションとしての匿名には、たしかに自已を解放するという効果がある。


宮崎
 サラリーマンだったら、会社にいるときとはまったく違う自分を演じられるものね。架空の空間に入ったとたん、完全に別人になれる。たとえば「別役学」という架空の人物を作り出すとすると、性格、年齢、身長、体重から、血液型、髪形といった非常に細かいところまで勝手に想像して、この人間だったらどういう意見を持つかまで想定して、架空の人物を楽しんでいるんです。

別役
 それがあくまでも遊びだという感覚を維持できれば、実体と情報との距離感が保てると思うんですよ、そういう意味での匿名、あるいはパソコン上の芸名やペンネームというのは健全な精神のあらわれでしょう。ただ、それを形にするために、パソコンにもパソコン文体というものがそろそろ生まれてもいいよね。手紙にはかつて候文があったし、拝啓で始まり敬具で終わる文体は今も続いている。


宮崎
 それ、できてるんですよ。おもしろいこととか冗談のときには、丸と三角の記号で作った笑い顔のマークをモつけたり、難しいことを考えてるときには、悩んでるようなマークをつけたりして。いろいろな表現が生まれつつあるんです。

別役
 そういう部分が発達すれば、パソコンネットワークからも、ひとつの文化が生まれるという感じで、明るい要素はあるという気がするね。


宮崎
 もっとも、その文化的な面も仮想空間ではなかなか根付かないだろうな。僕は、かつての共同体的な文化の残滓が懐かしいというタイプだから、親しい文化は認めうつも、古い肉感的なものへのこだわりが強いんです。だから、経済効率ばかりが追求された結果として、共同体のなかの肉感性原理が排除されてきたことに憤りを感じるし、さらに市場原理やネットワークがそれを希薄にすることにも恐れを感じるんですが。

別役
 演劇の立場からいうと、ドラマの主体は個体にある、個であることは重要である、という伝統的な考え方があります。それが今、宮崎さんが言うように市場原理やネットワークによって個体が溶解してきてるんですね。これが必然的にそうなるのなら仕方がないんだけど、情報のなかで個体を動かすことによって、そういうふうに錯覚してるところが問題だと思うんです。つまり、ネット上で青酸カリを売買してる人たちは、単なる情報戦をやってるにすぎないのに、それをあたかも個体が参加してるように錯覚している。この錯覚を変えさせて、なんとかして現実感を取り戻したいですね。

宮崎
 僕は、人間は最終的には動物だと思ってるんです。人間は理性があるから動物とは違うと言われるけど、そうではない、食べて、生きて、戦ってと、結局は動物であることが存在の大前提になってるはずです。それなのに動物性を否定することが進歩であり、文明であるかのようにとらえられているのが最大の問題だと思う。」

別役
 ささやかながら、演劇の世界ではそうしたものへの反動性も観察されてますよ。。演劇は、今までっと標準語でやってましたけど、最近、方言に重きを置いた動きがあるんです。各地で方言研究会というのがありまして、方言を研究してます。地域限定的な言語を使うことで、個の部分をいきなり晋遍化せずに、それぞれの独自性をまず作ろうと。部分的に鎖国状態にして、それから普遍化していこううというのがねらいです。


宮崎
 地ビールみたいなものですね。そういう動きがもっともっと出てくるといい。だから、僕も自分のホームページを使って、そういうところに風穴あけたいと考えてるんです。アジアの国へ行くとよく思うんだけど、アジアの教育は「生きる」ことを教えるんです。一方、日本の教育は「生き方」を教える、うまい方法、便利な方法は教えるけど、それを使ってどう生きるかという話はぜんぜん出てこない。だから僕は「うまく生きていく方法なんてないんだよ」という話をホームページで展開してるんです。何人かはそれを理解してるみたい。

別役
 人間が動物であるというのは、僕も思ってます。でも、少なくとも今の日本の若い人たちは、動物でなくなってきてるんじゃないかという不安がある。いじめに遭ってた子どもが、いじめた子の名前を挙げて自殺してしまうなんて、動物でなくなってるような感じがしてね。


宮崎
 動物だったら、まず生き延びますね。生きて復響しようとする。

別役
 アーサー・C・クラークのSF小説に「地球幼年期の終わり』という話があるんです。これは、親から独立した子どもたちが、ある日、個であることをみんな失って、クラゲみたいなブヨブヨしたひとつの塊になって地球から去っていくという傑作なんだけど、これって、どことなく今の日本の状況なら、いつ起きてもおかしくないという気がしませんか。

宮崎
 個であること、動物であることを一生懸命守ってきた親たち、かつての共同体世代だけが取り残されて、情報中毒にかかって仮想空間に浸りきった子どもたちは個も肉感性も失っそひとつに溶け合い、ある日どこかに消えてしまう……。うーん、設定としては限りなくありそうな感じですよ。(R)

朝日新聞社 「論座」 4月号より