私の闘いを支えている

 日本の人々にお礼をこめて

      児玉章吾



    

houtei wo der kodama san 98/12/17

 

        
 理由にもならない理由で拒否されてきた裁判所での私の証言がやっと実現されま
した。


 去る十月二十七日私は弟田中義三(裁判ではハヤシカズノリといわれている)の
法廷で証言をはじました。


 今の気持ちをのべるなら、やっと人間らしい感覚がもどってきたということです。冤罪を訴える場所すらも保証してもらえないなかで、情けないというか辛いというか苦しいというか、そうした気持ちがおりまざってずっと心にあったからです。プノンペンに設立した児玉国際貿易の開業式に妻を参加させようと一時帰国途中煮立ちよったバンコック国際空港。楽しく浮きあがっていた気持ちがぞっとするような悪夢にかわりました。


 九十六年二月九日のことです。
 私は空港で何人かの外人を含んだアメリカの集団(アメリカのシークレットサービスとかいわれている)にとり囲まれ無理矢理車におしこめられアメリカの機関とおもわれる建物に監禁されました。更には旅券、身分証明書、運転免許証、住所録、会社の書類など私の所持品が理由も告げられず書類も見せらないまま奪いとられました。それらは今の今も返してもらっていません。


  ○ハヤシをタイによびよせろ。
  ○協力しなかったらハワイに連行し生涯獄中生活をおくらせてやる。
  ○日本の家族の生活、お前の商売をメチャメチャにしてやる。
  ○お前は死ぬのがこわくはないのか。


 途方ないそうした話がだんだんそうでもないと思われてきました。タイという国であるはずなのに好き放題のことをしているこのアメリカ人の現状を実際目にする中で、奴らの言葉がただの言葉だけではないと感じられるようになり孤立無援の中で無力感、恐怖感が生じてきたし、どうにでもなれという投げやりな気持ちも生まれてきました。こうしたあらゆる肉体的精神的拷問の中で“ニセドル事件”なるものが、アメリカの思いどおりにつくりあげられていったといえます。二月末“罪の疑いなし”と断定され私は正式な手続きによって釈放されました。やっと不当不法な状況から抜け出したのです。

旅券をアメリカの奴らに奪われていたのですから日本大使館に尋ねていくのが常道だといえます。そうも考えました。

しかし日本大使館が私のことを知らぬはずがないのに、何もたすけてくれなかったのだからこのまま大使館に行けばむしろアメリカに通報し私を奴らに引き渡す危険性の方が高いと判断せざるをえなかったのです。

実際、この間私と弟が体験した事実は、日本大使館なるものはアメリカのやることなすことを傍観し裏で必死に協力することはあっても、邦人保護などその念頭にもないと思われることです。

以前カンボジア受難の時プノンペンと近郊に居た邦人が保護を求め日本大使館にかけ込んだ時も自分達外交官が脱出することしか頭になく多くの邦人が見殺しにされた歴史的事実を目撃もしたのですから、今回日本大使館の立場も特別異常なことではないと学んでおくべきことだったのでしょう。



最近のある日、私は思いあまって面会に来た日本大使館の係の人に言いました”私はカンボジア生まれです。私の日本籍がここまで無視され不当な差別を受けるのなら私は人間として生きてゆくためにも日本籍を放棄してもいいのです”と。九十六年二月末、タイ当局による正式釈放は、旅券をもたない私にとってはやむを得ぬ”逃亡者”としての生活の開始となり一日たりとて心の安まる日はありませんでした。髪を長くしヒゲをそったり髪を染めたりと姿形を変えるための努力が続きます。鏡に映される自分を見るたびに”なんで俺がこんなことをしなければならないのか”と叫んでみたり、自分で自分のやっていることがわからなくなりました。こうして生きていくなら死んだ方がましだと悩んだのも一、二度ではないし、アパートの屋上で考え込んだこともあります。しかし、死ねばすべて私か弟が罪をかぶせられるだろうし家族は一生そうした汚名をきせられると思うと決心もにぶってしまうのです。そうした錯乱した精神状況の中でただ息をするだけの生活が何日も何か月も続き一念余りにもなっていきました。
 
                 
 間違いなく私は精神的におかしくなっており、自分でも何を言っているのかわからない状況が生まれていました。アメリカ当局によりふたたび逮捕され、またチョンブリ刑務所に収容されたのです。記憶では九十六年六月七日だと思います。その日一年四か月ぶりで愛する弟と再会することが出来ました。流れる涙をぬぐおうともせずしっかりと抱きあっていました。余りに急なことで話す言葉が見つかりません。弟は、その時私が精神的に異常になったのではと本気で心配したようです。

”とにかく落ち着いて下さい。安心してください。兄弟こうして元気でいることがわかったのですからもう心配いりません。私はアメリカの奴らが兄貴を利用した後どこかで完全に消したのではと、そればかり心配していました。こうして元気なことがわかり、また会えたのです。闘いはこれからです。いくらでも闘っていく方法はあるはずです。久しぶりの弟は私にはっきりと力強くつげてきました。しかし刑務所では私と弟を別々の場所に隔離するなどそうしたアメリカ筋からと思われる不当な圧力が次々と加えられてきました。


 当時チョンブリ刑務所では外人は一カ所に集められていたのです。私と弟はただちに日本大使館への緊急面会を要求もしましたが全く音さたはありません。弟の弁護士なる人物もどこか雲隠れでもしたように姿を見せなくなりました。今考えるとそれは裏で一つの指令の下に動いていたと思われます。焦りと苦悩の中にあった七月二十三日の日です。その日の午後私は急に裁判所に呼び出されたのです。弁護士も傍聴者も居ない密室でタイ語も完全でないのに通訳もいないまま暗黒不当裁判が強行され、私に二年半という実刑が言い渡されたのです。

私にまったく落ち度がないともいえませんが、この世の中にこんなひどい裁判なるものもあるのかというのが正直な気持ちでした。後ろでアメリカがあやつっている裁判なる”茶番劇”に対しても日本政府や大使館は抗議するどころか”内政不干渉”という立派な口実を見つけだし全く動こうともしません。私は弟と共に必死に”弁護士”なる人物を新しく探し出すため努力を傾けました。そして新しい弁護士の下に裁判のやり直し又は再審を求めこの訴えを起こしたのです。(それ以来)すでに一年過ぎたのにそれに対する何の回答もないといった状況です。また、その直後から弟の裁判に証人として出廷するという話しが出てはそのたびに巧妙につぶされてきました。そもそも私が犯罪を犯したという確固たる証拠でもあれば正式な裁判でいくらでも決着をつけることができるはずです。こんな卑劣で汚い不当な手をつかうのはこの事件なるものがまったくのデッチあげだからです。そうではないでしょうか。
                  
 今回も私はまさか裁判に出廷できるなどとは思ってもおらず、弟も同じように信じていなかったようです。児玉と田中兄弟を会わさせない、話しをさせない。むしろ何とか対立させ、ケンカさせるため必死に努力して来たのがアメリカとタイの一部の人達のやり方でした。

裁判の前日二十六日の午前中まで一切何の話もありませんでした。午後になって私はチョンブリ刑務所に移されるという話を聞き、そのまますぐに移送されてきたのです。到着後、移送期間つけられる足の鎖をはずす場所に行った時、驚いてかけつけて来た弟に会いました。手をしっかり握り、肩を力強く抱きよせあっただけで話もろくに出来ないまま、私は別の場所につれていかれました。二十七日の裁判当日も出廷時の行動は別々に組まれており、その日の昼食時に裁判所にある囚人待機室で二人はやっと積もり積もった話をかわすことが出来ました。

久しぶりに見る弟は、三年前プノンペンに居た頃の面影はなく、やせ細るだけやせ細っていました。食事の問題もあるでしょうが、二十四時間の鎖の足かせというのは、生き抜くという単純な生活にも大きな厳しさを与えるものだと思います。前日まで四、五日風邪で寝こんでいたというのに、私を見るなり必死に元気なそぶりを見せ私を一生懸命励ましてくれます。やはり私の弟には間違いありません。日本では私、児玉章吾と弟田中義三の関係をよく理解しえていないという人もいるようです。


 長い付き合いでも一片の友情も生じないこともあれば、わずかな時間であっても厚い信頼や愛情が生じてくることもあるのがこの人間のすむ世の中です。プノンペンで知り合い急速に心を融かし合い二十四時間共に生活し仕事をするようになり、ついには義兄弟としての盃をあげたといえます。今回のニセドル事件が起こされる前から今日に至るまでの弟について恐らく私異常に詳しく知っている人はいないと思います。

プノンペンでも私はすくなくない日本人と会って話もしました。ある人は商売がうまくいかなくなるや「助けて下さい」と頼んでおきながら私が解決のためいっしょけんめい動きはじめると、今度は「有力な人を見つけましたからそちらに頼みます」といって人の好意に水をかけるようなことをし、あげくの果ては「その線がうまくいかないので、またお願いします」と泣きついて来るような恥知らずの日本人にも会いました。私の弟はそんな日本人とは全然違います。九十五年当時もカンボジアでは一部国境地帯での内戦が続いていました。ある日私のレストランに訪ねて来たひとりの青年将軍がいます。彼は部隊の参謀であり、彼の右腕であり長年のジャングル生活からの戦友を地雷によって一瞬のうちに失ってしまった傷心の胸のうちを涙ながらに語っていたことがあります。


 横にすわっていた弟も一度だけ会ったことのあるその大佐を想い出したようで私を通してその家族のこと遺児のことを色々と聞いていました。そしてその場ですぐ私に『兄貴!子供が四人だそうですが、その家族に私達が毎月百ドルの養育費を出しましょう。父親のような立派な愛国者に育て勉強もよく出来れば将来日本に留学もさせてやりましょう....』といってきたのです。それが私の弟です。一時的な興奮や雰囲気からではなく私の信念に基づく判断から私が義理の弟にしたのです。

                 
 アメリカによるこの度の事件引き起こしによって私ばかりでなく日本に居た家族の生活や仕事まで大きな被害を受け膨大な損失をこうむりました。あらゆる名誉が傷つけられました。

今迄の私の全生涯を否定されたといっても決して過言ではないと考えています。しかし私の家族の誰ひとりとしてこうした父親を責めることなく私の気持ちを理解してくれました。それが胸をしめつけたし、私にとっては大きな喜びだったともいえます。

今でも忙しい仕事の合間を見ては面会に来てくれる息子にも何度か強調しました。「今回のこの耐え難い差別、苦しみ、困難に勝ち抜いた時お前もひとりまえの人間として必ず大きくたくましく政庁してくことになるだろう...」と。若々しい青年としてはじめて日本社会と接した時考えました。勤勉・勤労を国民性としている日本という国ではその日本人以上に仕事に責任をもち誰よりも熱心に働くことが日本人の大きな信頼を得ることになるのだということです。

実際、私の毎日の生活には個人の私生活なるものはなかったと思います。毎日毎日が残業につぐ残業であり、必死の超人的な労働の連続でした。その結果、私は日本の人よりも人一倍多くの給料をもらったし、工場長、社長といった人からまで”児玉君”と直接声もかけられるようになりました。そして、それは私に日本生まれ出ない私にある種の満足感を与えていたし、困難といわれる日本国籍取得においても異例のスピードで行えたのも私自身の並々ならぬ努力の結果だと思っています。今回は今迄の生活とは根本的に異なる状況でこれまでとは違うタイプの人たちと新しい人間関係を築くことになった気がします。

当初、日本にはそれまでの私の生活をよく知っている知人も少なくないという期待があり、又マスコミにしても普通の人々を悪く伝えたり、ないことをあったとすることなどないとという日本社会に対する漠然たる信頼のようなものが強かったと思います。しかし、そうしたことがすべて裏切られたようになってしまいました。ついには、私自身が闘うしか他に方法がなくなりました。自分が普通の人間として誠実に生きていこうとするときの最低の闘いだといえます。敵に挑まれた上でのやむを得

ない防衛戦だともいえますが、とにかくどうしても闘わざるをえなくなりました。そうした日々に新しい日本の人々に会えるようになりました。両手両足をもぎとられも等しい獄中生活の私に代わり弁護士との活動、大使館との交渉、タイ当局との話し合い等々を誠心誠意行ってくれる方がいます。

猛暑のような毎日が続く日々も毎週定期的に面会に来ては暖かい励ましの言葉をかけて下さり、生活を心配して細やかな気配りをしてくれる方もいます。日本からはるばるタイの獄中までたずねて来ては力強く鼓舞してくれる人達からどれほど大きな勇気を得、喜びの熱い涙を流したかわかりません。

一番苦しく困難などん底のような生活の中で暖かく優しく力強い救いの手をさしのべて下さる日本人がいることを知ることが出来ました。少なからぬ民族的差別や蔑視も受けて来た私にとってはそれを差し引いても余りあるものとなりました真心から感謝いたします。

弟をはじめ少なからぬ日本からのそしてタイに在住する支持支援者、良心的ジャーナリストの人達が見守る中で自分の本当の気持ちを正直にありのまま告げることが出来たのは私の限りない喜びとなりました。その時の気持ちだけは実際にそうした苦しい立場におとし込められた人だけが実感し理解しえると思います。

私の今回の証言を通じたこのニセドル事件なるものが特にこれに対し私や弟が関与したことなど全くありえないことであり、すべてつくりあげられた”事実”であることが百パーセント明らかにされることは間違いありません。今後も気をゆるめることなく次回の法廷での証言も立派にやり、そして必ず再審要求も貫徹し私と弟の身の潔白が完璧に証明される最後の最後まで闘い頑張り抜きたいと思います。

当日、日本の記者カメラマンに述べましたように、これから私の闘いがはじまります。それを実際に行動で示していきます。

宇崎さんご夫妻、佐々木さん、福田さん、浅野さん、鈴木さん、宮崎さん、木村さん、村上さん、村松さん、多くの日本の皆さん本当に有難うございます。


児玉章吾さんの手紙について

98/12/21 宮崎学




 児玉章吾さんの、肉声が日本人に届く、のはこれが初めてである。
わしが別に付け加えることはなにもない。

わしは児玉章吾氏の名誉を回復するのが任侠の道やとおもとる。

 児玉さんは、「日本のみなさんへ」感謝の念を述べておられるが、感謝せなあかんのは、「日本人」の側ではないか、という気がする。

 児玉章吾さん、はカンボジア生まれの華僑であり、日本国籍を取られたわけだ。が、その結果として、カンボジアで、知り合った田中義三のために、自分と、自分の一家が破滅の淵に追い込まれた。


 が、今なお、田中義三を「弟」と呼び、責めるどころかその無実のために闘おうとする。これほどの人物を、「民主主義」を唱える日本のマスコミは取材もロクにせず、警察やアメリカSSの発表どうり、「犯罪者の共犯」として扱ってきた。恥ずかしくないのか、とわしは言いたい。その無能さと鈍感さが国を今、誤らせるところまできとるんやないか、とわしは思う。

 しかし、一方でそのような誤りを、ただそうというわしらも、そう無力ではない。
今回のこの裁判は、わしはそのようなことをアジアの、マスコミや権力、などとは無縁の多くの人たちのために証明してみたいとおもとるし、わしらが本気でやる以上、このタタカイは勝つで。

   12月21日  宮崎 学