99/3月16日 タイ・ニセドル事件公判 報告
【被告5の弁護側証人、ウィタワット・サンスリヤノン(37歳)氏がまず証言台に立ち、以下の内容の証言を行った。】
私は1996年1月当時はデイナイト・ホテルの営業部長として、被告1,2および4の上司であった。1月21日の午後、米国大使館の3人が訪ねてきて、ソムチャイ・ジャントーンの行方を尋ねてきた。後で知ったのだが、この3人はミンヤオ、トサポン、ジェームスの3氏であった。被告4に連絡をとるように言われ、ポケベルを使って連絡をとったところ、私の携帯に電話が入った。被告4とトサポンの間でその日の午後10時半にバンコクのドゥシッタニ・ホテルで会うことになった。これには私も同行した。
ロビーで会った後、被告4と米国大使館員達が話を始めたが、内容が米国大使館の機密事項を含むので私が同席することは拒まれた。しかし、私が視界からいなくなることについて被告4が反対したので、私は近くの席に座ったが話の内容は聞き取れなかった。その夜は米国大使館がとった部屋で私と被告4は、米国大使館の運転手というふれこみの二人の監視付きで眠った。
よく1月22日、10時から11時くらいの間に、ミンヤオとジェームスが部屋に来て盗聴器を私の携帯電話や部屋の電話に取り付けた。そのとき被告5のニヨム氏の行方を追っていると告げられた。その日の朝、私のホテルの人事部に勤める被告4の妻(ソンバット・ジップラサート)に連絡をとったところ、2日間の休暇を願い出て夫に会いにバンコクへ行くと告げられた。その後すぐに私自身はパタヤへ戻った。1月9日からこの時点まで被告4は無断欠勤をしており、被告の妻も彼の行方を探していた。
被告4がデイナイト・ホテルのロビーで被告1と2にドル紙幣の換金を依頼する現場は、私は見ていない。なぜなら、私のオフィスはロビーを見渡せる位置にはないからである。(ホテルのオフィスの写真を見ながら証言)
被告1と2が逮捕された後、私が彼らに面会に行ったとき、被告4の妻も私に同行した。原告側が主張するような、被告1と2にドル紙幣は西洋人から受け取ったと言うように被告4の妻が指示したというようなことなないと聞いている。
両替屋のギアティラックにはパタヤ警察で会った。
(検察側の反対尋問に答えて)
被告4の勤務態度はきわめて良好であった。
両替屋のギアティラックは、「両替して渡した9000ドル相当のバーツを変換してくれれば、訴えを取り下げる」と私に言った。
被告4がドゥシッタニ・ホテルの8階から足首に怪我をしてまで逃げようとしたのは、「ホテルでの様子が米国大使館が最初に約束した『逮捕しないから協力しろ』という状況とは違ったので恐ろしくなって逃げたのだ」と被告4の妻から聞いた。
(被告4の弁護人からの質問に答えて)
被告4が無断欠勤をしている間に私は1回だけ被告4とパタヤのボーリング場で会ったが、そのとき被告4は「自分が受け取ったドル紙幣はニセ札ではないと確信している」と私に語っている。私は被告4に「出来るだけのことをして助けてやる」と約束した。
(被告4の証人の証言終わり)
【次に被告5,ニヨム・プラサート氏(43歳、会社員)が証言台に立ち、以下の内容の証言を行った】
起訴状の内容は事実に反する。起訴される前の5年間は、キムサーンという韓国系の会社に勤めていた。この会社は、皮革製品、石油(?)、衣類、冷蔵庫などの輸出を行っていた。
1996年1月4日午後3時頃、被告4がラクシーにある私の家に、友人と2人で赤のピックアップ・トラックで訪ねてきた。30分ほどして帰って行った。次に来たのは1月12日で、被告4の友人と弟も一緒だった。両替の件で部下が逮捕され、それを助けるのに金が必要なので、5万バーツほど貸してくれと言われた。その時は私は金を持っていなかったので、金融業者を紹介するから被告4の車を担保に金を借りたらどうかと答えた。
それから2〜3日して、妻の実家があるスリンに行き、再びバンコクに帰ってきたのは1月24日である。帰りのバスで被告4と携帯電話で話しをし、「何かあったら連絡をしてくれ」と伝えた。夕方6時頃バンコクの家に着いた。8時ころまで家の前のテーブルで兄や妹たちとビールを飲んだ。8時過ぎに被告4が体格の大きな人と二人でやってきた。被告4は一人で門を通って敷地内に入ってきた。大きな人は車の中に残った。「誰と来たのだ」と聞くと、被告4は「友人だ」と答えたので、一緒に飲もうと誘ったが断られた。
屋外にいるときには分からなかったが、家に入ると被告4が茶色の紙袋を持っているのに気が付いた。被告4は、おどおどしながら人に聞かれてはマズイとでもいうような小さな声で「金はないか?」と聞いた。いつもは長居をするのに、その晩は十分くらいで私の家を出ていった。茶色の紙袋がテーブルの上に置き忘れられていたので、私は袋の中を覗いてそれが金であることを知った。そこで、急いで被告4の後を追い「金を忘れたぞっ!」と叫んで呼び戻そうとした。しかし被告4は逃げるように私の家の敷地から出ていった。それと入れ替わるようにして5〜6人の男が家の敷地内に押し入ってきた。たまたま門のところに兄がいて、人が出入りする通用門を押さえつけ侵入を阻止しようとしたが、多勢に無勢で押し切られてしまった。私はヘンだと直感して、急いで家の中に入り、被告4の置いていったドル紙幣をトイレに流した。
麻薬取締局の警官が敷地内をウロチョロしはじめたので、私の姉がバンコク選出のパウィナー・ホンサクン議員(編注:売春を含む女性問題や児童問題などで精力的に活動している女性議員)に電話をして助けを求めた。姉はまたドンムアン警察にも電話をしていたので、20分ほどすると警察官がやってきた。
兄ルンロートと押し入ってきた男達との間の問答の後、私は兄に呼ばれてダイニングルームに出ていった。そこで、侵入してきた男達は、私に勤務先、勤務年数、被告6との関係などについて私に質問した。私は、被告6がカンボジアにいるときに彼の下で2年半ほど働いたことがあると答えた。これに対して、彼らは私のパスポートを調べてカンボジアへの出入国記録を確認した。彼らは被告4が持ってきたドル紙幣は米国大使館のものだから返せと言ったので、私は「捨てた」と答えた。ニセ札所持で私を逮捕するつもりかと彼等に尋ねたところ、彼等は「事情聴取にきただけで、逮捕するつもりはない」と答えた。この間の会話はすべてトサポン氏の通訳で進行した。彼等は「費用は負担するから、お宅のトイレの便器を壊させてくれ」私の姉に許可を求めた。彼等はその場で姉に1500バーツを手渡した。トイレを壊して紙幣を取り戻した後まもなく彼等は帰って行った。翌日彼等は再び我が家にやって来たが、私はその理由が何であるか分からなかった。
(弁護側弁護人の質問に答えて)
最後にロパチャイに会ったのは、1995年11月、バンコクのタイパン・ホテルのコーヒーショップであった。
1996年1月5日の朝、トサポンはタイパン・ホテルに行き、そこで働いている私の弟(サマーン)にロパチャイの友人関係を尋ねた。そして、夕方私の家に来て、ロパチャイについて私にいろいろ聞いてきた。私は、ロパチャイのところを辞めてから5〜6年たっていたので、最近彼が何をしているのかは知らなかった。帰宅していた弟は英語が分かるので、トサポンがミンヤオに話が誇張して通訳しいることに気が付き、「こちらが言っているそのままを通訳しろ」とクレームを付けた。トサポンは、「児玉とロパチャイが(タイパン)ホテルに来たら、オレに連絡をしろ」と言って自分のポケベルの番号を置いていった。
その3〜4日後、私はスリンに行った。スリン滞在中3番目の姉から電話があり、トサポンに折り返し電話するように言われたが、私は電話をしなかった。その必要はないと思ったからである。
1996年2月7日、夜の10時から11時頃、スリンの私のところへ5〜6人の地元警官が来て、逮捕すると言って手錠をかけられたが、私は何の理由で逮捕されるか分からなかった。そのとき妻の親に「トランプ賭博でもやったのか?」と聞かれた。私は妻に一緒に来るように言った。逮捕状も捜査令状も提示されなかった。「なんで逮捕されるのか」と私が尋ねると、警官は「つべこべ言うな」と私を一喝した。
警察署に着くと、私の身柄移送のための書類にサインをさせられた。夜11時頃、バンコクに向かって出発した。妻も一緒であった。移送の車中では後ろ手に手錠をかけられ跪かされて苦しかったので、それを訴えると、「協力すれば、楽にしてやる」と言われたが、結局朝バンコクにつくまでそのままの姿勢で我慢した。バンコクに着くと、なんと妻も私と一緒に拘留されてしまった。
2月8日は午後まで取り調べがなく、午後3時半頃バンコクのアユタヤ通りのあるサイアム・シティ・ホテルに連れて行かれた。ホテル内を引き回された後、1階か2階のどちらだったかはっきり覚えていないが部屋に入れられた。アメリカ人が一人入ってきて、トサポンの通訳で「ロパチャイにはどうすれば会えるか?」と聞いてきた。ロパチャイの携帯電話、自宅などあらゆるところへ電話をしたが、連絡がつかなかった。
夜7時頃、ロパチャイは今空港にいて、チャオプラヤ・パーク・ホテルに宿泊予定であるという情報がトサポンの携帯電話に入った。そこでトサポン、警官一人、私が1台の車、もう1台にミンヤオ達が乗って、チャオプラヤ・パーク・ホテルに急行した。ホテル前のタイル屋の前に車を止めると、トサポンらが私の身体に盗聴器を装着した。そして、私は、厚みが半インチほどのむき出しの100ドル紙幣の束を渡され、「この紙幣をロパチャイ(被告6)に渡すときに、『金を返す』と言って渡せ」と指示された。
駐車場に移動してから、私の手錠がはずされたが、そのとき駐車場のあちこちにすでに警官が潜んでいることを知らされた。私が逃げるような魂胆を起こしてもムダだということを示したかったのであろう。しばらくトサポンの車の中にいたが、「ロパチャイが下りてきた」という無線連絡が入り、私はロパチャイの車のところへ歩いていくように指示された。ロパチャイは、ホテルの建物を出たところで友人と長い間、10分か20分位ずっと立ち話をしていたので、私は車から離れてロパチャイのところへ歩いて行き、金を持ってきたと話しかけたが、彼は話の途中であったので、「ちょっと待て」といってとりあってはくれなかった。私は、金を押しつけるなんて悪いことはできないと考えたので警官のところへ戻った。警官は、「女房を留置場から出したくないのか?」と私を脅し、「今度はロパチャイの車の中にその金を投げ入れろ」と命令した。そこで、私はロパチャイの車の助手席背後の後部座席に札束を投げ入れた。そして、身体につけられた盗聴マイクに向かって「金は投げ入れた」と言った。
私はバンの後部荷室に伏せて隠れているように言われた。ロパチャイは身柄を拘束されると、私が潜んでいるバンの座席に座った。バンはサイアム・シティ・ホテルに向かった。ホテルに着くとロパチャイは降ろされ、私は車に残った。夜の9時か10時頃私は、バンコク北警察に連れて行かれ、妻と一緒に留置された。私の入れられた房は、外部から見られないようにカーテンが下ろされた。
翌9日、3人の警官に取調を受けた。「ロパチャイから金を受け取っただろう」と言われた。夜、妻が呼ばれ、夫についてきたという書類にサインをさせられた。妻に車代が渡され、彼女は釈放された。私は、留置場で一夜を過ごした。米国大使館側は、「私の罪を問わないことにするから、協力しろ」と言ってきた。10日午後、パタヤ警察に移された。私に対する取調が行われたのは11日か12日になってであり、取調を担当したのはスチャオー警察大尉であった。「ニヨム、罪を認めるのか、否認するのか?」と聞かれ、私は否認すると答えた。すると、スチャオー警察大尉が「これは否認状だ。サインしろ」といって書類を出したので、私はそれを読まずにサインした。取調が済むとすぐに釈放されたので、私はパタヤからラクシーの家に戻り、翌日スリンに向かった。姉のワニダーがスリンの私のところへ電話をしてきた。米国大使館のトサポンに電話するようにとのことだったので、電話をすると、「至急バンコクに戻り、われわれをキムサーン社に連れて行け」と命令されたが、私はスリンにとどまった。
2月25日、トサポンの命令でバンコクのインペリアル・ホテルへ行ったところ、そこには黒人2人と白人4人がいた。私は頭と胸と指先に何か器械のようなものを取り付けられた。さらに提示された印刷物を上から下まで何回も読まされた。どんな内容であったかは覚えていない。アメリカ人の一人が私のパスポートのコピーをとった。そして指紋を10本の指全部についてとられた。トサポンの代わりの警官があと少しで終わるから我慢しろと言ってくれた。釈放されてから起訴までの間は、トサポンからの連絡は途絶えていた。
(被告1,2の弁護人の尋問に答えて)
被告4が私の家へ来たとき、彼は部下を助けるための金が欲しいといった。
(被告6の弁護人の尋問に答えて)
2月7日にスリンで逮捕され、バンコク北警察に連れて行かれたとき、携帯電話と国民証明書を取り上げられてしまった。その携帯電話には、被告6の電話番号も記憶させてあったが、警察には口頭でも被告6の電話番号を知らせた。
チャオプラヤ・パーク・ホテルの駐車場には2月8日に行った。警官は、どれがロパチャイの車であるかなどもすべて知っていた。ロパチャイの車は、シトロエンであることが分かったが、夜だったので色は何色かは分からなかった。私が座っていた車の中から、ホテルの階段を下りてくるロパチャイの姿が見えた。ロパチャイは、4〜5人の友人と一緒に建物を出てき、そのうちの一人と立ち話を始めたので、他の友人はそれぞれの車で帰っていった。
ロパチャイが彼の友人と一緒に自分の車に戻ると、友人が座った助手席背後の後部座席に金を投げ込んだ。トサポンとミンヤオの車は、駐車スペースにして10台分ほど離れたところにとまっていた。
(原告側ケティラック弁護人の尋問に答えて)
(スリンからバンコクへの移送に関しての身柄移送書類を見せられて、、、)身柄移送書類だといって見せられたのは確かにこの書類だが、私がサインをしたときには、ここにある他の人のサインはまだなかった。
このパスポートを使って行った国は、カンボジアだけである。カンボジアのロパチャイのもとで働いていたときは、鉄屑の商売であった。支払いには携わっていなかったので、ドルでの支払いをしたことはない。
ロパチャイの車に投げ入れた札束の厚みは、半インチくらいであった。
破ってトイレにすてた紙幣の破れ方は覚えていないので、証拠物件の札束を見せられても分からない。ただし、色はもっと黒かった。
被告4は、兄の友人ということで知っていたが、親しい間柄ではない。被告1のソムチャイは知り合いではない。
ラナリット殿下がロパチャイに連絡してきたことがあるのは知っているが、それがどんな内容の用件であったかは知らない。
(原告側の検察弁護人の尋問に答えて)
被告4の家がどこにあるかは、知っている。
キムサーン社には4〜5年勤めていた。バイクをベトナムに輸出していた。
被告4がカネを借りに来たときに、初めて彼の部下が捕まったことを知った。
1月24日被告4が私の家に来たとき、彼は茶色の紙袋を持ってきたが、中身については聞かなかった。15分くらい話したときに、彼から「カネを貸してくれ」と言われた。車で待っている友人も呼べと私が行ったのに、その友人は家には入ってこなかった。被告4が出ていくやいなや、何人かの男が押し入ってきた。私は、被告4の置いていった紙袋を持って、被告4を追い掛けようとしていたのだが、兄が私に向かって家の中へ入るよう叫んだ。翌日も彼等はやって来た。
2月7日に私はスリンで逮捕された。
被告6のところを辞めた時以来、彼には連絡をとっていなかった。
被告6のサインは、法廷で見るようになるまでは、どんなものかは知らなかった。
1995年11月に、児玉氏のことを友人だといって被告6から紹介された。そのとき彼は自分のことを「児玉」とは名乗らずに、単にロパチャイの友人であるといった。私はそのときは児玉氏とは話しておらず、また被告6ともその後は連絡をとっていない。米国大使館側は、私に被告6と連絡をとれと命令した。
【ここで被告5は、チャオプラヤ・パーク・ホテルでの出来事を繰り返して証言したが、ここでは省略】
その後、裁判所で被告6に会ったときに、「すべては警官に指示されてやったことだ」と彼に話した。米国大使館の命令でロパチャイの車に私が投げ込んだ札束も、被告4のケースと同じくニセドル紙幣であるに違いないと思う。
刑務所では被告6と一緒だったので、その時に初めて被告6がタバコの商売をしていることを知った。被告3の証人として出廷した児玉氏に会ったのが、彼に会った2度目である。
(被告弁護人チャクリット弁護士の尋問に答えて)
カンボジアでは在庫管理を任されていた。リエル(注:カンボジアの通貨)を使って生活していた。当時の取引ではどの国の通貨が使われていたのかは知らない。
被告4が持ってきた紙袋の中身がドル紙幣だったので、置き忘れたのだと思い追い掛けた。その前に被告4に彼の部下がニセドル使用で捕まったと聞いていたので、怪しいと思った。
【以上で被告5ニヨム氏の証言は終わり】
次に被告5の証人として、被告5の兄ルンロート・プラサート(48歳、会社員)が弁護側弁護人の尋問に答えて以下の内容の証言をした。
私は両親の家から4−500メートル離れたところに済んでいて、被告5は両親と同居している。被告5は、スリンと両親の家の間を行ったり来たりしている。私は、両親の家をほぼ毎晩訪問している。
1月24日の夜8時か9時頃、私が両親の家を訪ねたとき、被告5は家族と話をしていた。私は弟(被告5)を呼び出し、家の前のテーブルで酒を飲もうと誘った。ビールを1−2杯飲んだ頃、被告4が友人と2人で車でやって来た。被告4が折り畳んだ茶色の紙袋を持って1人で入ってきた。私は被告4に椅子をすすめ、もう一人の車の中にいる人を呼びに行った。被告4と弟は10分くらい話していたが、話の内容は私は聞いていない。被告4が家から出ていったので、門の扉を閉めようとした。紙袋はテーブルの上に乗ったままだった。弟は紙袋を被告4に渡そうと、手に持って門のほうに向かおうとした。被告4が門をでるや否や、4〜5人の男が門から押し入ろうとしたので、私は通用門の扉を押仕返したが、多勢に無勢で突破された。タイ人2人、中国人1人、これは後で知ったが大使館の人間でミンヤオ氏であった。ミンヤオはピストルを取り出して敷地内を歩き回りはじめたので、私は彼を追い出そうとしたが、彼は出ていこうとしなかった。私服を着ていたので警官とは分からずに、男の家の2人と口論になり、弟に「ドンムアン警察に電話しろ」と指示し、また妹にはパウィナー・ポンサクン女史に電話するように言った。ドンムアン警察の警官がやって来きたので、事情を説明した。押し入った連中は、逮捕状や捜査令状も持っていなかった。ドンムアン警察の警官が問いただすと、2人の私服警官はあわてて門の外へ逃げ出してしまった。トサポンとミンヤオとジェームズは、家の中で話したいと申し出た。最初からそう言えばケンカにならなかったのに、と私が文句をいうと、相手は謝罪したので、私は3人に家の中に入ってもらった。このときもミンヤオはピストルを握ったままだったが、私にピストルがあったならこの3人は間違いなく死んでいただろう。家の中に入った3人に、「何の用だ」と問いただすと、「被告4が持ってきた紙袋が必要だ」と言った。次に中身について尋ねると、「米国大使館がニヨム(弟)に渡すために送ってよこしたドル紙幣だ」と言った。私が何故このような形で押し入ってきたのだと聞くと、「被告5の協力を得られないと困るからだ」と答えた。彼等は被告5と話させてくれと言ったので、「ちゃんと話すなら、弟を呼んで話させてもいい」と言って、弟を呼び一緒のテーブルにつかせ、袋を返すように言った。「袋はどこにあるのか?」と聞くと、破いてトイレに捨てたと答えた。調べてみると、便器を破壊せずに捨てた紙幣を取り出すことが出来ないことが分かったので、米国大使館側は自分達が便器の修復費用を負担するから、便器を壊させてくれと申し出た。オーケーすると、彼等は便器を壊して紙幣を取り出すと、ビニール袋に納めた。紙幣を取り戻したトサポンに対し「弟は何かの罪に問われるのか?」と私が尋ねると、彼は「それはない」と答えた。そこで、私最後に彼に向かって、「仮に弟に何か落ち度があったとしても、弟は逃げも隠れもしないので、ここに連絡してくれればいい」と言った。
(被告6の弁護人の尋問)
【証拠物件の千切れた紙幣を見せられ、量的にはこれくらいの札束だったか、そしてそれが証人がトイレから回収した札そのものであるかと問われて】
量的にはそんなもんだったと思うが、ここの証拠が私が回収した札そのものであるということは断言できない。
(原告側弁護人の尋問)
【警察に連絡しなかったのか、という質問に答えて】
警察には電話をしたし、国会議員の秘書や、町内会長にあたるような人達にも報せた。
被告4は、私のすぐ下の弟、つまり被告5のすぐ上の兄になる者の友人で、ときどき両親の家に来ていた。被告4がパタヤのデイナイト・ホテルに勤務していることは弟から聞いていた。私自身は、デイナイト・ホテルには行ったことはない。被告1と2の逮捕については、私は直接被告4からは聞いてはない。私が、米国大使館側に「なぜニセ紙幣をわざわざ持って来たのか?」と問いただすと、彼等はニセドル紙幣を製造したり使用している者達を捜査するためだと答えた。被告6は、20年程前に5〜6年間一緒に働いたことがあり、そのとき彼は私の上司であった。私はツアー部門で働いていたが、それ以外のところで彼がどのような商売をしていたかは知らない。
(検察側弁護人の尋問に答えて)
1月24日の米国大使館員の侵入事件より以前に、被告4が私の両親の家に電話してきたことがあるのか、あるいは訪ねてきたことがあるかどうか、弟が私に何も言わなかったので私は知らない。
テーブルから門までの距離は3メートルほどある。被告4と一緒に来た人を家の中に呼び入れようと門の外に出たが、その人の乗っている車以外の車は見あたらなかった。
【ミンヤオがピストル振りかざして敷地の中を歩き回っていたということだが、その時怖くはなかったのか、との質問に答えて】
全然怖くはなかった。ただ、年老いた両親に危害が加えられることだけは心配した。
20分位してドンムアン警察の警官が来たが、そのときミンヤオ達が自分達も警官だと身分を明かしたので、ドンムアン警察の警官はミンヤオ達を逮捕することはなかった。1時間ほど話をした後に、米国大使館の侵入者達は帰っていった。
(被告5の弁護人チャクリット弁護士の尋問)
【トサポンとどんな話をしたか】
弟のニヨムの勤務先や、キムサーン社のスラパーン氏、ロパチャイ氏のことについて聞かれたので話した。お金のことや外国に行ったことがあるかも聞かれたので話した。夜10時頃に国会議員の秘書がやって来たときは、米国大使館側はトサポン、ミンヤオ、ジェームズの3人だけが残っていた。彼等が帰ったのは夜中の12時ごろになっていたと思う。
(3月16日公判の証言内容の報告終わり)